一時代を築いたような人の「死」は、彼が生きた時代が過去となり、新しい時代が到来したことを告げているのかも知れない。
ここに敢えて「死」としたのは、2人はともかく、残りの1人は危篤が6月に伝えられて以来、その後の消息が途絶えたままだからだ。既に88歳。昨年秋にも危篤が報じられたことがあるから、彼が一生を捧げた主義主張からいえば、あるいは既に「マルクスとの面会」に旅立っているようにも思える。

中国警戒論を恐れた党中央宣伝部長・丁関根

 いまから20年ほど遡る1993年6月、中国全土の報道機関に対し、「中国警戒論に口実を与えるような経済の成功ぶりを報道してはならない。殊に東南アジアの華人と中国とが結びついた大中華経済圏に関する報道をしてはならない。原則として彼らの中国に対する投資情況を報道するな」と厳命したのが、共産党の思想宣伝部門を統括する党中央宣伝部長兼政治局委員の丁関根だった。丁がこの地位を得たのは、最高実力者である鄧小平のブリッジの相手を務めたからだともいわれていた。“鄧小平の茶坊主”と揶揄する声もあったが、いずれにせよ彼の発言が当時の中国と東南アジアの関係を色濃く反映していることは確かだろう。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。