韓国の野党第1党、民主統合党は9月16日、党大会を開き、同党の大統領候補に文在寅(ムン・ジェイン)議員を選出した。同党の大統領候補を選ぶ予備選には文在寅議員、孫鶴圭(ソン・ハクキュ)元京畿道知事(64)、金斗官(キム・ドゥグァン)前慶尚南道知事(53)、丁世均(チョン・セギュン)元民主党代表(61)が立候補した。同党の予備選は8月25日に済州島を皮切りに全国各地で投票が行なわれたが、文在寅氏は13地域全部でトップを獲得した。同党の第1次予備選で過半数の得票を得られない場合は上位2人の決選投票になるが、文在寅議員は9月16日のソウル地域での予備投票を含めて56.5%の34万7183票を獲得して、決選投票の必要なく大統領候補の座を獲得した。

「盧武鉉政権の家老」文在寅

 文在寅氏は盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の大統領秘書室長を務め、盧武鉉政権の家老イメージが強い。強烈な個性を発揮した盧武鉉大統領を横で支えた調整型の人物という印象だ。
 文在寅氏がどういう人物か日本ではあまり知られていない。1953年1月慶尚南道巨済で2男3女の長男として生まれた。両親の故郷は北朝鮮の咸鏡南道興南だったが、朝鮮戦争が勃発、1950年12月に南へ「一時避難」したが、そのまま南の地に定着することになった。文在寅氏が小学校の時に釜山に引っ越し、生活は貧しかった。釜山で慶南中・高校に通うが、あだ名は「文在寅」(ムン・ジェイン)という氏名をもじった「問題児」(ムン・ジェア)だった。酒やたばこで4回停学になった。
 ソウルの慶熙大法学部に進み維新時代の1975年にデモを主導して懲役8カ月執行猶予1年の刑を受けて大学を除籍された。兵役を果たし78年に除隊になって司法試験の勉強を開始したが、79年の釜山・馬山デモ、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領暗殺事件、80年の「ソウルの春」などの歴史の激動期を迎えた。80年に戒厳令違反で2度目の逮捕を経験したが、同年に司法試験に合格。研修を終えて裁判官を希望したが逮捕歴が災いして実現せず弁護士になって故郷の釜山に戻った。
 87年の民主化運動の中で盧武鉉前大統領との因縁を結んだ。87年5月に釜山「民主憲法争取国民運動本部」を結成し、その常任執行委員長が盧武鉉弁護士、常任執行委員が文在寅弁護士だった。盧武鉉弁護士が88年に政界に身を投じ、文在寅弁護士は釜山で労働事件などの弁護を手がけた。盧武鉉氏が2002年に大統領の予備選に出ると文在寅氏は釜山選挙本部長を務めて盧武鉉氏を支えた。盧武鉉氏が大統領に当選すると、文在寅氏は青瓦台で2度の民情首席秘書官、市民社会首席秘書官、大統領政務特別補佐官、秘書室長を歴任した。
 盧武鉉大統領が退任後、自殺し、文在寅氏は盧武鉉支持グループの中心的な存在となっていく。そして今年4月の総選挙で与党の強い釜山から立候補し当選した。
「盧武鉉大統領の秘書室長」というイメージがつきまとうが、これを脱皮して自らがリーダーシップを発揮しなければならない野党第1党の大統領候補となった。著書『文在寅の運命』の中で「あなた(盧武鉉大統領)は(亡くなったことで)運命から解放されたが、私はあなたが残した宿題で身動きができなくなった」と記した。
 有権者が調整者・文在寅氏に期待したことがある。それは安哲秀(アン・チョルス)氏との「候補一本化」だ。孫鶴圭氏や金斗官氏が大統領候補になれば、自分が譲ることはなく最後まで立候補を貫く可能性が高い。しかし、文在寅氏は「調整の人」である。野党支持者たちが文在寅氏に予想以上の支持を与えた背景には「文在寅氏ならば安哲秀氏との候補一本化を実現してくれる」という心理が働いたことは間違いない。

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