失敗の連続だった「ヤマト朝廷」の外交戦

執筆者:関裕二2012年10月25日
聖徳太子は唯一の成功例?(C)時事
聖徳太子は唯一の成功例?(C)時事

 島国育ちの日本人は、伝統的に外交が下手だ。日常的に「生きるか死ぬか」の駆け引きをしてきた大陸や半島の人々とは勝負にならない。  9世紀以降明治9年(1876)の日朝修好条規締結に至るまで、朝鮮半島と正式な国交を断絶し続けたことも、外交力の低下を招いた一因だろう。  史上唯一の外交の成功例は、遣隋使かもしれない。7世紀初頭(飛鳥時代)に聖徳太子が隋に使者を送り、 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」  と大見得を切り、隋の煬帝(ようだい)をあわてさせた。一度は激怒した煬帝だったが、小国日本の意気軒昂なことを怪しみ、文林郎(ぶんりんろう、隋の官位。学芸文筆の名誉職)の裴世清(はいせいせい)を答礼使として日本に差し向けたのだった。  聖徳太子は隋の煬帝が仏教に深く帰依していたことを知っていたのだ。ヤマト周辺に仏教寺院を建立し、盛大に裴世清を歓迎した。そのうえでへりくだり、「文明国の教えを請いたい」と頭を下げたのである。  よもや、東海の孤島に、文化的な世界が広がっているなどとは夢にも思っていなかった裴世清は驚き、感心した。  これぞ、英邁な人物・聖徳太子の、機知に富んだ外交戦といってよい。

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