新教皇の清貧

執筆者:徳岡孝夫2013年4月10日

 いまから30数年の昔、現役の新聞記者だった私は、アルゼンチン政府の招待取材で、数人の各社記者と共にブエノスアイレスにいた。折から私たちのホテルに近いカトリック聖堂で、死者の名も地位も忘れたが故人を送る葬儀が執行されている。いい機会である。私は聖堂に入って後方の空いた席にかけ、ミサの進行を見守った。そして驚いた。

 列席者の大半は軍人で、それもかなり高位、高齢の人々であることが胸の勲章から見て取れる。神父の朗唱する祈祷文に応えるmiserere nobis(我らを憐れみ給え)、deo gratias(神に感謝)などラテン語の祈りがピシッと決まっている。明らかに日曜ごとに教会に行ってミサに与っている信徒の声である。

 

 ミサが進んで「デ・プロフンディス(深き淵より)」の歌になったとき、私は死者のことを忘れて感動に痺れた。低く深い、淵の底から神を呼ぶような男声の合唱。それは明らかに幼いときから聖歌を歌い慣れた会衆が、心と信仰を1つにして歌っている声だった。

 当時は、まだアルゼンチン軍がフォークランド島をめぐる戦闘で英軍に負ける前だったので、私は聖歌を歌うアルゼンチンの軍人たちに素直に感動した。

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