フランス人とフランス語

執筆者:徳岡孝夫2013年6月4日

 ごく簡単な英語だが「ボート・ピープル」を御記憶だろうか。それは1975年4月、北ベトナム軍が明日にはベトナム共和国の首都サイゴン(今のホーチミン)を攻め落とそうかというとき、あり合わせの小舟に身を託して南シナ海に逃げたべトナム人のことである。

 国家が滅んで地図上から消える瞬間、国民の間には大騒動が起きる。親戚知人を訪ね、一緒に国外へ逃げないかと誘う人がいる。とにかく自分だけが何らかのコネを頼って外国へ逃げようと算段する人もいる。国外での連絡先を書いた紙をドアに貼っておく等々。

 

 私は外国人記者の特権を利用して米軍ヘリで南シナ海上の米第7艦隊旗艦に移った。途中で眼下に見る海には、小舟が無数に浮かび、それがすべてボート・ピープルを満載し、沖へ沖へと逃げていた。

 運良くヘリに乗り込めた者もいた。私のヘリに同乗したボート・ピープル50人の中で「私はフランス語しか分らない」と言っていた老紳士は、「心配するな。俺がヘリまで連れてってやる」と言って彼と腕を組んだ英人記者のおかげで救われた。

 1968年のテト攻勢でベトナム全土がベトコンの同時奇襲攻撃にやられたときも、私はユエ大学で教授から取材しようとして、やんわり「フランス語でどうぞ」と返され、空しく退散したことがある。カンボジアでも、フランス人が植民地時代に植え付けたフランス文化はしぶとく生きていた。

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