ミラノの失望、トリノの希望

執筆者:大野ゆり子2005年2月号

 十年ぶりのミラノには、正直いってがっかりした。聳え立つ大聖堂からスカラ座に抜ける道には、ヴィットリオ・エマヌエーレというサヴォイア家出身の初代イタリア国王の名を冠した、ガラス屋根のショッピングアーケードがある。重厚な色合いの大理石が敷き詰められた舗道は由緒正しくて、オペラの稽古を終えてステッキ片手に上機嫌に歩いてくるヴェルディにでも出くわしそうな趣があったものだ。アーケードの中心には、高そうな銀器やカラーの画集を置く本屋があって、この通りにただならぬ品格と威厳を与えていた。かといってスノッブなところは微塵もない。たとえ買わないとわかっていても、丁寧に商品の説明をしてくれたり、画集を見せながら画家の悲運を教えてくれたり、家族経営のオーナーの応対には、ゆったりと熟成したイタリア文化の懐の深さが感じられた。

 そうした店は、何とこの通りから忽然と姿を消していた。その後に出現したのは、アメリカ系のファーストフード店、ドイツ車のショールーム、フランスのブランドバッグ店だった。しかも、その変化は建築の美的な基準を壊していないだけに、一見しただけでは気がつかない。赤地に黄色の一文字がトレードマークのファーストフード店は、黒地に金色とシックに出店している。景観を損なわないための企業努力なのだろうが、その配慮はかえって確信犯めいて思われた。苛立ちを覚えたのは出店した企業に対してではなく、むしろ、時代の流れに身を任せ、イタリア魂をやすやすと手放したミラノに対してだ。

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