「結果責任」と政治の決断

執筆者:田中明彦2005年3月号

 イラクにおける暫定議会の選挙は、悲観的な予測と比べてみると、予想外にうまくいったように見える。ブッシュ大統領は、イラク国民の勇気をたたえつつ、この結果は成功だったと評価している。 投票率があがらず、各地で大規模な武装蜂起が続発して、選挙結果が惨憺たるものとなった可能性と比較してみれば、今回の事態がよかったことは間違いない。その意味で、選挙を日程どおり実施させたブッシュ政権やイラクの暫定政権の判断は正しかったということになる。 しかし、そのことは、今回の選挙を強行することはあまりに危険が大きいので延期すべきだと主張した人々の見解が、誤りだったとか、まったく見当はずれだったということを必ずしも意味しない。なぜなら、一月三十日以前の段階で、事態が現実におこったようになるということに確信をもてた人はいないからである。 一月三十日以前の段階では、事態が実際におこったよりもはるかに悪くなることも一つの可能性としては十分にあった。また、今後のことを考えても、延期して数カ月後に選挙をおこなって、さらに投票率をあげたほうが、現在のあり方よりもよくなるという可能性も、否定することはできないからである。 似たようなことは、失敗と思われている場合にも言えないわけではない。たとえば、二年前のイラク開戦の決断である。開戦理由の最大のものとして当時懸念された大量破壊兵器は、その後、発見されなかった。多数のテロリストが国外から侵入して、かえってイラクは対テロ戦争の主戦場ともなってしまい、イラク国民の犠牲者はいうに及ばず、アメリカ軍の犠牲者も一千のオーダーを越えるまでになった。このような結果からみれば、ブッシュ政権の開戦の決断は誤りだったという見解は、相当の説得力を持っている。

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