ナショナリズムと日本サッカー

執筆者:星野 智幸2013年6月26日

 各国の代表チームにはしばしば愛称がつく。ブラジルなら「セレソン(選抜)」、イタリアは「アッズーリ(青)」、南アフリカは「バファナ・バファナ(現地語でボーイズ)」、メキシコは「エル・トリ(三色旗)」、そして日本は「サムライ・ブルー」。

「サムライ・ブルー」は2006年ドイツワールドカップに出場した際、日本サッカー協会が採用し、そのまま定着した。この「サムライ」が大流行して、やがて野球の代表を始め、さまざまなスポーツの代表チームや選手に使われていくようになるのは、周知のとおりだ。

 サムライはいかにも日本的なイメージではあるのだろうが、その命名の過程を思い返すと、私は少々首を傾げてしまう。21世紀になるまで、日本の中には自分たちのことを「サムライ」と自称する習慣も空気もなかった。この言葉がにわかに流布し始めたのは、私の記憶では、2004年にトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラストサムライ』が日本で大ヒットし、準主役の渡辺謙が世界的に評価を得てからである。

 

ヘイトスピーチ

 つまり、自分たちの内部から実感として「サムライ」なる言葉が出てきたのではなく、ハリウッド目線で描かれた「サムライ」の物語が受けた結果、急に「サムライ」を自称し始めたのである。私には、世の空気を読んだうえで割り振られたキャラや役割に甘んじる、という意味で、「サムライ・ブルー」の名は日本的風土をよく表しているように思える。正式な愛称の表記は、「サムライ・ブルー」でも「侍ブルー」でもなく、「SAMURAI BLUE」なのだ。

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