最大の危機は? 60年のおさらい

執筆者:徳岡孝夫2005年4月号

 芋焼酎が人気で、一本何万円もするのがあるという。想像もできなかったことである。というのも六十年近い昔、焼け跡にヤミ市があった頃、私は密造芋焼酎の運搬人だった。 神戸・三宮のガード下を歩くと「兄ちゃん、何か売る物あらへんか」と声をかけられた時代。口のきける男はブローカーに、物を運べる者はヤミ物資の運搬人になった。私は関西汽船の三等大部屋にゴロ寝する客と虱を伝染し合いながら、高知へ焼酎を仕入れに行った。南海地震で倒れた家を見たから、昭和二十二年の春、旧制高校の入試が済んだ後のことだろう。 簡単な器具があれば、芋焼酎は誰にでも造れる。ただ強烈な芳香を放つから、税務署の取り締まり班にすぐ見つかる。それを避け、密造所は山の奥へ奥へと移っていく。 ブリキ屋が作ってペンキを塗り、番傘そっくりに見える容器に、焼酎を詰めて運ぶ。港には警察が張っているから、三本も四本もの番傘を、さも軽い物のように運ぶのがコツである。法網は、くぐるためにある。いま配給の途絶えた北朝鮮で、人民はきっと昔の私と同じ暮らし方をしているはずである。 今年は昭和八十年。敗戦から満六十年だが、「あの夏の日」を生きた者は、もうとっくに日本の少数派になった。旧制中学生だった私は動員され、西大阪の鉄道用品庫で焼夷弾の雨を浴びつつ働く鉄道員だった。大阪鉄道局長は佐藤栄作という目玉のデカい男で、後に総理大臣になった。終戦の詔勅を聞いた職場は、いまテーマパークになっているらしい。

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