三月二十八日に「(株)はてな」(http://www.hatena.ne.jp/)という変な名前の会社の取締役(非常勤)になった。「はてな人力検索」(どんな質問でも普通の文章で問いかけると会員の誰かが回答してくれるコミュニティ)、「はてなダイアリー」(ウェブ日記)、「はてなアンテナ」(ウォッチしたいサイトの更新状況を定期的にチェック)といったサービスを手がける日本のネット・ベンチャーである。創業から四年足らず、二十代ばかりの社員九名の、まだまだちっぽけで、吹けば飛ぶような会社である。でも「ちょっと頼まれたから」的な中途半端な参画ではなく、一九九七年にミューズ・アソシエイツを、二〇〇〇年にパシフィカファンドをそれぞれシリコンバレーで創業した時と同じくらい真剣に考えて、同じくらい大切な決心をした結果である。
 二〇〇一年九月十一日の同時多発テロから三カ月ほどたったとき、本連載第六十四回(二〇〇一年十二号)で、「九月十一日という日が自分の前半生と後半生を分ける分岐点となるに違いない」「自分(一九六〇年生まれ)より年上の人と過す時間をできるだけ減らし、自分より年下の人、それも一九七〇年以降に生まれた若い人たちと過す時間を積極的に作る」と書き、それ以降は、時間の使い方の優先順位をすっかりと変えた。
 当時私は四十一歳で、日本のエスタブリッシュメント社会に受容される上り坂を駆け上がり始めていた。二〇〇一年一月に日本電気(株)の経営諮問委員に就任した。それから立て続けに、同五月には(株)NTTドコモのアドバイザリー・ボード・メンバーに、同八月にはオムロン(株)のアドバイザリー・ボード・メンバーに就任した。変わりゆく日本企業社会で新しく生まれた「経営に正式に関与する社外人材」市場での私の株は、自分で言うのも何だが、急上昇していた。そんな時期に書いた本連載第六十四回の原稿は、「私はもうその世界への興味を失いつつある。これまでに引き受けた仕事はすべてきちんと仕上げるが、もう新しい仕事は受けない」という決意表明でもあった。
 これは過去にも書いたことなので詳しくは繰り返さないが、「九月十一日」への日本の反応、特にエスタブリッシュメント層の有識者たちが示した反応に、深い失望感を抱いたからだった。思想的にどうこうということではない。あれだけの衝撃が世界をおそったときに、当事者意識を持っていれば必ず働くだろうはずの反射神経が全く働かない「古い日本」。そのことに愕然として力が抜けると同時に、知らず知らずのうちに自分の中にもしみついた「古い日本」を脱却して、新しい自分を構築しなければと強く思ったのである。
 時間の使い方の優先順位を変えて、まず「日本人一万人シリコンバレー移住計画」構想を練り、JTPAという非営利組織を二〇〇二年七月に創設した。そして、日本の組織から離れてシリコンバレーで生きる日本人たちの新しいコミュニティを作ると同時に、日本の若い世代に向けた情報発信を始めた。本誌を除く雑誌連載をやめ、二〇〇三年四月からCNET Japanというインターネット・メディアで、二十代を主対象に「英語で読むITトレンド」という毎日更新の連載をスタートし、二〇〇四年十二月までの二十一カ月間、ほぼ毎日休みなしに書き続けた。日本出張中の空き時間は、東京で若者たちに会うことに費やした。
 それで確信したことは、日本の若い世代には、全く新しいタイプの日本人が生まれつつあるということであった。社会全体で見れば二極分化を起こしていることは否定できないけれど、二極化した上側のスピリッツと潜在能力は、私たちの世代を大きく凌駕している。
(株)はてな創業者兼社長・近藤淳也(二九)は、私が出会った日本の若者たちの中でも、特にキラリと光る逸材であった。「無人島に漂着したグループの中に近藤がいれば、きっと自然にリーダーになるだろうな」。それが近藤の第一印象だった。近藤は三重県生まれで京都大学理学部物理学科出身。大学時代はサイクリング部と自転車競技部に所属。大学院時代には休学して自転車選手として活躍した後、大学院をやめて自転車レースのカメラマンになった。その後、独学でインターネットやプログラミングを勉強。京都で(有)はてなを創業して一年前に東京に出てきたばかりである。
 私が(株)はてなに参画する決心をしたのは、近藤が、(1)いつ何どきもそして何ごとに対しても自分の頭で考えていること、(2)敏捷な動物のような強い生命力を持っていること、(3)正直であること、(4)カネや物に対するギラギラした欲が全くないこと、この四つの理由からである。
 時間がかかってもいいから近藤には、孫・三木谷・堀江とは全く違うタイプの新しいリーダーへと大きく成長していってほしい。そのために、これから先、悔いの残らない勝負を近藤が思い切りできるよう、私の知識や経験や人脈が活用されていけばいいと思う。これが私の「後半生」最初の仕事になる。

Umeda Mochio●ミューズ・アソシエイツ社長。1960年東京生れ。94年渡米、97年コンサルティング会社ミューズ・アソシエイツを起業。著書に『シリコンバレーは私をどう変えたか』(新潮社)がある。メジャーリーグの野球、そして将棋の熱烈なファン。

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