米軍が進駐するより前に、ソ連が被爆二都市の現地調査を行なっていた新事実が明らかになった。ゾルゲの連絡役も務めた生き証人の壮絶な記憶は、六十年を経たいまも折にふれ甦るという。 在東京ソ連大使館領事を隠れ蓑にしたソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のスパイで、当時三十二歳のミハイル・イワノフ大尉は、何度となく広島を訪れていた。人々が陽気で愛想のいいこの街を彼は好きだった。窓の外をながめていたイワノフは、あの丘を越えればもうすぐ広島の街が見えると期待した。彼を乗せた列車は丘を曲がった……。 イワノフは目の前に広がる惨憺たる光景にあっけにとられた。海側に開けていた町はもはやなかった。米国の新型爆弾で大きな被害を受けたことは想像していたものの、惨状に言葉もなく、呆然として目の前の光景を見つめていた。街のところどころに崩壊した建物の残骸があった。それはまるでSF宇宙映画を思わせる不気味な荒地、巨大な廃墟だった。 一九四五年八月。米軍による広島(六日)、長崎(九日)への原爆投下直後、クレムリンから在東京ソ連大使館に対して、直ちに現地を視察し、被害状況を調査するよう密命が下った。ソ連がまだ保有しない原爆の威力解明に躍起になった最高指導者・スターリン直々の指令だった。この危険な任務を命じられたのが、日本語を操るイワノフとゲルマン・セルゲーエフ駐在武官補佐官だった。米国が広島、長崎での現地調査を開始したのは同年九月八日以降で、ソ連の秘密調査が最も早かったのだ。二人は原爆投下から十日後、玉音放送翌日の八月十六日、広島のかつて駅だった場所に降り立った。

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