ウェーバーに倣って生き方、働き方を考える

執筆者:橘木俊詔2005年11月号

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』
Die protestantische Ethik und der 》Geist《 des Kapitalismus
マックス・ウェーバー著/梶山力訳/安藤英治編
未來社 1994年刊

 私達日本人は資本主義という経済体制に生きている。最近は資本主義という言葉に代わって、市場主義という言葉が用いられることも多い。資本主義はマルクス、エンゲルスによっても解明されかつ糾弾された経済体制であり、社会主義ないし共産主義という対立体制が提唱されたものである。市場主義という言葉は、労働者(あるいは消費者)と企業との間の経済取引が、市場メカニズムを媒介としてなされることを強調するのに対して、資本主義という言葉は、企業・金融を保有する資本が経済取引を規定するとみなしている。マルクス主義では労働者は資本家による搾取の対象となっている。
 市場主義と資本主義を細かく定義すれば、両者は異なる概念であるが、ここではほぼ同義とみなす。市場主義と資本主義は、アダム・スミスによって「見えざる手」と称された、市場における価格機構のメリットに絶大な信頼をおくものであるが、ここではそれらの倫理面に注目してみたい。
 私が経済学を学び始めた学生時代には、経済学上の古典には二つがあった。マルクス経済学を学ぶ者にとってはマルクスの『資本論』であり、近代経済学を学ぶ者にとってはケインズの『一般理論』であった。前者は大部で難解な書物であり、後者は大部ではないが難解な書物である。私はこれらよりも、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』により大きな親近感を持った。マルクスやケインズで分析された難解な経済上の理論を知ろうとするよりも、歴史や哲学・倫理の立場から経済体制、すなわち資本主義の生成を解明することに興味を覚えていた。もとより、マルクスも唯物史観に基づいて資本主義を解明しようとした。
 ウェーバーとマルクスは、対立して理解されることが多いが、こと「階級論」に関していえば、両者が似た解釈をしていることは興味深い。

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