フランスのベルナール・ド・モンフェラン駐日大使(六〇)が一月四日、三年余の任期を終え離任した。しかし成田空港から大使が向かったのはパリではなくウラジオストクだった。シベリア鉄道でパリに戻ろうというのである。 この遠回りの帰任には理由がある。二〇〇五年末、大使とインタビューした際、大使は私にこう語った。「シベリア鉄道の旅は幼いときからの夢でね。妻はそんな長旅はいやだというので気楽な一人旅だ。本をしっかり買い込んだから、これを読みながらのんびり帰るよ」。モスクワからは空路だが、それでもモスクワまで六日半の旅だ。 大使が日本に着任したのは〇二年十一月。在任中、日仏両国はイラク戦争、対中武器禁輸解除問題、国際熱核融合実験炉(ITER)誘致をめぐってかつてなく激しくやりあった。その大使が日本での最後の仕事として取り組んだのが「ポール・クローデル記念館」の設立だった。 フランスの外交官だったポール・クローデル(一八六八―一九五五)は詩人、劇作家としても知られ、一九二一年から六年間、駐日大使を務めた。文人大使として日本の各界と幅広い交友を結び、友人だった実業家の渋沢栄一とは日仏会館の設立(一九二四年)に奔走した。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。