「女性が主役」だった時代

執筆者:関裕二2014年3月14日

 安倍政権が成長戦略の一環として、女性の活躍を推進している。いわゆる「ウーマノミクス」で、2020年までに指導的立場の女性を30%まで増やす目標を掲げた。そんな最中、本田技研で、初の女性役員登用が決まり、ニュースになった。この程度で話題に上るのだから、まだまだ女性の社会進出は、遅れているのだ。

 

「天皇の母のミウチが権力者」

 いっぽう、日本の歴史をふり返れば、女性の活躍が目立つ。歴史を動かした女性は、星の数ほどいる。和宮、日野富子、北条政子、光明子、県犬養(橘)三千代、斉明天皇、推古天皇、卑弥呼など、時代の節目節目に、きら星の如く女傑たちが出現した。その中でも古代史は特別で「女性が主役だった」といっても過言ではない。それにもかかわらず、男性が中心だったという歴史観が罷り通っているのは、いくつもの誤解が重なっているからだ。

 たとえば、系図は男性の血脈だけを描く場合が多いが、実際には、「母方」を組み込まないと、正確な人間関係、力関係を知ることはできない。「誰と姻戚関係を結ぶか」「いかに閨閥を形成するか」が大きな意味を持っていたし、ここに、女性の果たす役割と発言力の源泉があった。

 ヤマト建国ののち長い間、実権のない司祭王(大王、天皇)を支えていたのは取り巻きの豪族であり、その中でも、娘を天皇に嫁がせた豪族が、優位に立った。その娘が御子を生み、即位できれば、さらに大きな発言力を獲得できたのだ。蘇我氏も藤原氏も、競って自家の女人を有力な皇子や天皇に嫁がせた。目的は、権力基盤を盤石なものにするためだった。

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