冷凍庫よりも寒いモスクワにて

執筆者:大野ゆり子2006年3月号

 ある朝起きてみると、鼻がなくなっている。鼻があるはずの場所は、のっぺりとしたパンケーキのようになってしまい、美男子を自任していた男は、呆然となり、他人を逆恨みし、やがて自分の「鼻先」をかすめて逃げ回る鼻を追い掛け回す――。 最低気温マイナス三十度まで落ちた一月中旬、モスクワに到着して、突然ゴーゴリの小説「鼻」を思い出した。通常の冷凍庫の温度設定がマイナス二十度。それよりも十度低い温度では、鼻はなすすべがない。ロシア人の友人が、耳まですっぽり隠れる毛皮の帽子を貸してくれたので、それを被り、靴下やセーターを重ね着し、手袋をはめ、マフラーをぐるぐる巻きにし、できる限りの防寒は心がけた。 しかし、問題は「鼻」である。自分の息が瞬間に凍りつき、凍った息が必死で巻きつけたマフラーにつらなってくると、自分の鼻の存在まで恨めしくなる。ゴーゴリの小説では、どうして逃げ出すのが「鼻」なのだろうと思っていたが、モスクワ以上に寒いというサンクトペテルブルクのこと、貴族階級とはいえ、身を切る風の冷たさは同じ。ゴーゴリも鼻の存在を恨む日々を過ごしたのかもしれない。 ロシアのウクライナへのエネルギー供給停止問題で幕を開けた今年だが、滞在中にロシア国内の電力消費量がソ連崩壊以来、最高記録に達した。多くの学校が休校になり、民間の会社は勤務時間を短縮するように呼びかけられていたが、一般のモスクワっ子は、寒いからといって休むわけにはいかない。

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