東独秘密警察の文書が彼女の心に残した「壁」
2006年4月号
松本清張や水上勉の推理小説には、戦後のどさくさの中、あえぐような貧困や忌まわしい過去から這い上がって生きるため、やむを得ず犯罪に手を染めていく人々が描かれた。やっと名声をつかみかけた時に、過去を知る人物が現れ、追い詰められた主人公は殺人を犯す。運命に弄ばれた主人公の境遇には、理由なき殺人が横行する現代と違って、どこか同情を誘うところがあったものだ。 現代ドイツの刑事ドラマには、日本の戦後のように時代に翻弄された犯人が、頻繁に登場する。たいていは、STASI(シュタージ)と呼ばれる旧東独の秘密警察に関係したものだ。たとえば、東西統一後に不断の努力をして成功し、人望をあつめ市長選に出馬した、旧東独出身者の前に、突然、脅迫者が現れる。市長候補はかつてSTASIに協力した過去があり、その秘密を知る脅迫者にゆすられ、口封じのために殺してしまう、というようなストーリーだ。 STASIには、約六百万人の人を監視し、記録した文書が残されているそうだ。STASIとの関係を疑われた有名人に、旧東独のスケート選手、カタリーナ・ヴィットがいる。美貌と気品ある滑りで、銀盤の女王の名をほしいままにし、その後もモデルや女優として活躍していた彼女は、STASIから便宜を受けた疑惑で数年前、マスコミに騒がれ、自伝の中で自分の立場を弁明した。
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