大陸横断・青蔵鉄道と「心の問題」

執筆者:徳岡孝夫2006年9月号

 日米修好通商条約の批准書を携えた万延元年遣米使節すなわち新見豊前守正興ら七十七人のサムライは、一八六〇年二月、米艦ポーハタンに便乗して品川を発った。ハワイ経由サンフランシスコに安着したが、そこは国の都ワシントンを遠く離れたカリフォルニアだった。 カリフォルニアは合衆国三十一番目の州ではあるが、まだいわゆる「陸の孤島」だった。東にはシエラネバダ山脈やモハーベ砂漠が立ち塞がり、東部に行く陸の便がなかった。仕方ない。サムライたちは再び船でパナマに到り、そこから日本人初の団体鉄道旅行をして大西洋岸に出、三度び船でワシントンに達して任務を果たした。 まもなく始まった南北戦争に災いされ、カリフォルニアはその後もしばらく孤島のままだった。飛行機のない時代、陸で繋がっていなければ連邦政府の方針は伝わらず、徴税もままならなかった。国を一つにするための大陸横断鉄道は、アメリカを挙げての悲願になった。映画『駅馬車』や物語『大草原の小さな家』の頃のことである。だが工事は難航した。 西へ伸びるユニオン・パシフィック鉄道と、サクラメントから東へ伸びるセントラル・パシフィック鉄道は、なかなか出会えなかった。荒涼たる無人地帯。後者建設のため太平洋の向こう岸から連れて来られたシナ人労務者は、バタバタと倒れた。枕木一本ごとにシナ人一人が埋まっていると言われた。

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