[カイロ発]エジプトに行くのは今年に入ってもう三度目である。勤務先が日本研究を海外に広めるという使命を帯びているため、年に一度大規模な学術大会を外国で開く。今年はこれまでにつながりの浅いアラブ諸国に出向くことになった。
 アラブ諸国である程度まとまった日本研究の制度を持つのはカイロ大学の文学部だけである。一九七三年の第四次中東戦争に際して、日本はアラブ産油国によるボイコットを受けた(石油危機)ことから、対アラブ文化交流の拠点として、日本側が働きかけて日本語日本文学科が開設された。日本から常時教授や教員を送り込み、卒業生に奨学金を与えて日本に招き学位をとらせてカイロ大の教員にして戻すなど、国際交流基金など日本側が丸抱えのようにして育ててきた。その後も日本に呼んで便宜を図るなど、きめ細かな配慮がなされている。しかし成果は砂漠に如雨露で水をやるようなもの。とはいえ、水を絶やすわけにはいかない。
 そもそもエジプトに日本学科を作ったところで、ペルシャ湾岸の産油国に直接影響は及ばない。かといって七〇年代の湾岸諸国では初・中等教育すら整備の途上で、高等教育機関などほとんど存在していなかった。二十世紀を通じて、アラブ諸国の中で他に先んじて、どうにか国民教育を整備しようとしてきたエジプトは、アラブ世界との文化交流の受け皿としてほぼ唯一の選択肢である。
 しかしエジプトのような非産油国では、教育機関が大衆化して膨れ上がり、質が低下している。カイロ大学は学生総数が三十万人以上といわれる。文学部だけで二万五千人。哲学科に毎年千人以上の学生が入学するような施設を「大学」と呼ぶことが適切かどうか、私には分からない。ましてや「東京大学」と同列の「最高学府」などと考えると対象を大きく見誤ることになる。給与が安いため、客員研究員・客員教授といった立場で海外に出稼ぎに行って留守にする教員が多く、助手や非常勤講師が適当な授業でお茶を濁している。
 アラブ諸国では、「大学」といった我々が馴染んでいる言葉を同じく用いている場合でも、内実はまったく別物であることが多い。しかし外交も文化交流も、相手側の社会水準や、相手が日本に対して持つ関心や求めるものに応じた形での関係しか、やはり築きようがないのである。遠回りなようであっても、ひとつひとつ積み重ねていくしかない。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。