日出づる国から眺めた隣の国の四皇帝

執筆者:徳岡孝夫2007年3月号

 目分量で言うのだが、古今東西の文学の少なくとも半分は、男が女をどう思うかを書いている。書き手は圧倒的に男の方が多いし、男は思い込みの激しい性だから、女を神や天使になぞらえる。悪魔にも描く。むろん女を「産む機械」以下だと断じる作家もいる。 発言のキワドイ部分を文脈から抜き出され、袋叩きになった大臣は気の毒だが、いくら「冗談だが」と断ったにせよ彼の軽率さには驚く。 七月参院選という天下分け目の合戦に備え、小沢一郎氏はすでに単騎戦場を駆け回り、あちこちで安倍勢の足軽雑兵の首級を挙げては大音声に勝ち名乗りを上げている。なにもわざわざ、彼の前に進み出て首さしのべる必要なかろうに、と思う。 実はこういうことを書くのは、いまからここで柳沢氏に勝るとも劣らぬ謬見を語ろうと思うからだ。攻撃、批判されるのに備え、予防線を張っておく。予め言う、これは冗談である(と言っても無駄か?)。 私は一九四九年の大陸に、共産主義革命はなかったと見る。あったのはシナ古来の易姓革命である。腐敗その極に達していた蒋王の朝廷は滅んで、蒋介石は台湾に逐電した。代って中華人民共和国という新王朝が生まれた。初代皇帝たる毛王は首都を北京に定め、文武百官から学生・人民に至るまでが、天安門広場に集い新帝を称えた。シナ人は昔から、そういうふうにして王朝を替えてきた。

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