アメリカ銃乱射事件の重苦しい澱み

執筆者:ルイーズ・ブランソン2007年6月号

[ワシントン発]去年の晩秋、十七歳の息子トムと私はバージニア工科大学のキャンパスにいた。トムがこの大学に進学を考えていたからだ。ワシントン郊外の自宅から車で四時間。自前の空港まで擁するキャンパスは、圧倒的なまでに広大だった。見学に訪れる高校生を収容する巨大な講堂を探し当てるまでに四十五分もかかったことを憶えている。 以前からバージニア工科大の強豪フットボールチーム「ホーキーズ」のファンだった息子は、すぐに魅了された。だが私は、二万六千人もの学生の中に彼が埋没する懸念を払拭することができなかった。 結局、息子は別の小規模な大学を選択した。お陰で私自身は、精神を病んだ韓国人学生が銃を乱射して三十二人を殺害し、自らも命を絶った四月十六日の米史上最悪の銃乱射事件とこの先ずっと関連づけて語られる大学に、秋になったら自分の子供が進むという思いに悩まされずに済む。だが、近所にはその暗澹たる思いに苦しむ親が少なからずいる。 それとは別に、今回の悲劇は私の胸に別の大きな不安を植え付けた。銃規制に対するアメリカ社会の沈黙だ。もしチョ・スンヒによる銃乱射が他の国で起きていたら、すぐさま銃規制強化を求める声が上がっていたに違いない。

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