ネットの進化と母国語の関係について真剣に考えなければならないなと最近つくづく思う。ネットは距離のような物理的制約を軽々と超える自由を私たちに与えてくれると同時に、あるいはそれゆえに、言語の差という難問をこれまで以上に意識させる。 物理的に日本から遠い場所に住み、周囲の人びとが皆「英語で生きる」という環境に住みながらも、ネットの進化によって、母国語である日本語圏が私の時間にもどんどん浸食してくるようになった。よほどの覚悟がないと日本語を遮断して生きるのは難しい時代なのだろう。渡米した約十三年前(ネット黎明期)は、逆によほどの理由がない限り、アメリカに住めば自然に「英語漬け」の毎日にならざるを得なかったのだから、隔世の感がある。 こちらにやってくる日本の若者たち(留学生、企業駐在者とその家族、長期旅行者など)は、新しいパソコンにこれまでの環境(ソフトウェアやデータ)をまずは移し替えるように、自らの日本語環境をアメリカでの新生活にインストールする。私たちの世代にはあった「アメリカに来た以上、日本語から徹底的に離れるぞ」といった気負いが、彼ら彼女らにはない。 ネットで日本のニュースを見るだけでなく、日本にいる家族や友人たちと無料ネット電話・スカイプで頻繁に話し、ときには映像までつなぎっぱなしにして「テレビ会議」ならぬ「テレビ食事」をすることさえある。日本のテレビ番組も、日本に置いた録画機器とうまく接続すれば、すべてネットで見ることができると言う。ミクシィ上のシリコンバレー周辺在住日本人コミュニティには既に五千人以上が登録済みで、グルメを趣味とする人たちはこちらの有名レストランを借り切った食事会を開いて楽しんだりしている。出産や子育ての相談も、ネット上の日本人コミュニティの相互扶助に強く依存する人が増えた。日本語圏の引力は本当に強く、アメリカ生活における「英語の必要性」を著しく相対化させている。

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