八月に利上げし、勢い次第では年内にもう一回上げて福井総裁を見送りたい日銀。金利正常化は進んでも、「市場の正常化」は……。「次、撮っていいですか」 六月二十一日、東京・大手町の経団連会館。全国信用金庫大会が終わったあとに開かれた立食パーティー会場の一角には、ちょっとした行列ができていた。記念写真をねだる信金幹部のデジカメに笑顔を向けていたのは、日本銀行副総裁の武藤敏郎氏である。信金大会での講演後、ふらりとパーティー会場に現れた武藤氏は、旧友と再会したような表情を浮かべていた。信金幹部たちは、武藤氏が旧大蔵省銀行局の中小金融課長時代に活発に議論しあった間柄だった。 最後の大蔵次官であるとともに初代財務次官を務めた武藤氏は、二〇〇三年から日銀に転じ、副総裁として福井俊彦総裁を支えてきた。日銀総裁は生え抜きと旧大蔵次官が交代で務めてきたポストなのだが、総裁ではなく副総裁として日銀入りした次官経験者は初めて。それを意識してか、武藤氏は居丈高な理事クラスとは対照的に腰を低くし、記者にも気軽に声を掛け、転勤する中堅職員の送別会にも顔を出すなど、早くから人心掌握に気を配ってきた。 だが、武藤氏が日銀で地歩を固めたのは、腰の低さだけが理由ではない。日銀の“プリンス”である福井総裁が村上ファンドに出資していた問題の後始末を舞台裏で取り仕切り、組織防衛で大きな功績をあげたからだ。日銀は当時、再発防止策として総裁以下幹部職員の有価証券投資に関するガイドライン策定を急いだ。マスコミの関心を事件から善後策に向けなければ、総裁のクビが危うい。この局面ですばやく動いたのが武藤氏だった。外部の人材に声をかけ有識者会議を急遽つくって議論させ、私募ファンド投資の禁止や資産公開などを盛り込んだ答申を出させた。旧大蔵省の常套手段である。会議には前証券取引等監視委員会委員長の佐藤ギン子氏、新日鉄常任監査役の関哲夫氏など大蔵シンパ人脈がズラリ。武藤氏と同じ東大出身でも日銀幹部には無理な芸当だった。

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