改宗騒動が浮彫りにした人権概念の乖離

執筆者:池内恵2007年9月号

 エジプトで「改宗」というイスラーム教最大のタブーが公然と提起され、騒動となっている。問題の渦中にいるのはムハンマド・ヒガージーという人物で、イスラーム教徒として生まれたが、各宗教の比較に関する思索を進めた末に、九年前にキリスト教への改宗を断行したという。 イスラーム教では、イスラーム教から他宗教への改宗(「離教」)は絶対的な罪であり、認められない。「背教」の最たるものとされ、死罪にあたる。これは一部の「狂信者」あるいは「保守派」の厳格な解釈ではなく、社会通念の次元で定着している。改宗が「許されない」という次元の話ではなく、普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」という共通認識が根本にある。いわば人倫にもとる行為、あるいは「物理法則」に逆らう行為とみなされているといっていいかもしれない。 エジプトの憲法では信仰の自由は保障されており、制定法の範囲内には、改宗を明示的に禁じる法律はない。ただし婚姻や財産相続といった領域に関する個人関係法(personal status law)については、依然としてイスラーム法の規範が適用される。これはエジプトに限らず、多くのイスラーム諸国でも同様である。そして行政手続き上は、市民の基本的属性として、性別や年齢と同様に、「宗教」の区分は重要不可欠であり、内務省が発行するIDカードには宗教が明示されている(観光客に対しても入国カードに「宗教」の記入欄がある)。エジプトの場合、約八千万人の人口のうち、一割弱がキリスト教徒(その多くはエジプト独自のコプト教徒)とされる。

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