小田実に抱いてきた小さな「私憤」

執筆者:徳岡孝夫2007年10月号

 横浜の大桟橋で船を降り、タクシーに「横浜駅へ」と命じると、道の左側を走り出した。一年間の留学中に右側通行に慣れていた私はビックリした。五十年近い昔の話。 大阪へは夜行列車で帰る(新幹線はまだなかった)ことにし、まず九段のフルブライト委員会へ帰国報告に行った。 中年のアメリカ人が私の話を聞いてメモを取った後、言った。「あなたの先輩の中に留学中のことを書いて、たいへん有名になった人がいます。あなたも有名になって下さい」。それが小田実氏、本はその年に出た『何でも見てやろう』だった。 東京オリンピックが始まって終わり、「ベトナム反戦」の時代が来た。ベ平連の創設者・小田氏は、ますます有名になった。私は新聞社の特派員としてバンコク駐在を命じられ、そこでベトナム大混乱の報に接した。一九六八年一―二月の旧正月攻勢である。サイゴンの米大使館も一時はベトコンに占拠され、ベトナムのほとんど全部の都市が一斉攻撃を受けた。「応援に行こうか」東京本社に電報を打つと「お願いする」と返電があった。バンコク郊外の米軍基地に行くと「武器弾薬の輸送中だ。空きができれば乗せてやる」と言う。むろんエアラインは全面欠航である。八日目に空きができた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。