『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次著中公新書 1962年刊 西洋史学徒の会田雄次は京都帝国大学副手時代の昭和十八年(一九四三)夏に「教育召集」を受け、京都で入隊した。ところが、帝大出のこの初年兵は、予想に反して翌年二月には輸送船で南方に送られることになり、その所属師団はやがてビルマ戦線に投入される。動員前の軍事訓練も不十分だったが、戦地では英空挺部隊との対戦で師団は大損害を受け、所属部隊はろくな火力もない敗残兵集団と化した。が、帝国陸軍の軍隊秩序は残った。会田は命令に服しながら、部隊と野戦病棟の間を「逃げ回った」。 やがて敗戦、英軍に降伏。部隊は「ビルマ・ラングーン地区アーロン日本降伏軍人収容所」で捕虜生活を送る(傍点は佐瀬)。変なことだが、敗戦後に投降した日本軍部隊の将兵を、英軍は捕虜とは呼ばず、降伏軍人として遇した。軍隊秩序を維持させたのだ。会田が解釈するように、日本兵を強制労働に服させるには、その方が好都合だからだ。所属部隊に新兵補充はあり得なかったから、昭和二十二年五月に引揚げ船に乗るまで、会田は「万年初年兵」として軍隊の最底辺で生きた。 その収容所体験を会田は帰国から十五年後の昭和三十七年に一書にまとめた。それは、一般向けとしては会田の処女作だったが、読書界には衝撃が走った。収容所体験の異常さもさることながら、会田の展開する西洋文明批判、より具体的には「紳士の国」英国の「正体」を見極めよと糾弾する会田の気迫に、人びとは息を呑んだのだった。大きなパースペクティヴで言えば、『アーロン収容所』はわが国旧来の西洋理解、とくに英国理解を陳腐化し、刷新する起爆剤となった。注目すべきは、アカデミズムの――マルクス主義史学を除く――西洋史学に有形、無形の大きな影響が及んだことだ。マルクス主義史学は西洋先進社会を打倒の対象と見、伝統的史学をブルジョア史学だと侮蔑したから、会田の挑戦を無視できた(そして結局、衰退した)。が、アカデミズム西洋史学は本家・西洋の史眼の踏襲一本槍では済まなくなり、自前の史眼の重要さに気づくようになった。

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