1957年、新潮社より全4巻で刊行

 亡妻がまだ元気だった頃。私が吉田茂の『回想十年』を熱心に読んでいると、「そんなに面白いの」と訊いた。それには直接に答えず、「吉田茂って政治家に、どんな感じがする?」と逆に問うと、「ワン・マン!」と一言が戻ってきた。当時、愚妻は東京のある音楽大学で教鞭をとっていたから、いわば政治音痴に近かった。

 政治家は大なり小なりそうなのかもしれないが、やってみないと分からないものらしい。わが国の敗戦後、吉田は1945年9月17日に東久邇内閣の外務大臣に親任された。しかし、政治的な野心からは程遠かった。日本の政治も混乱していた。東久邇内閣が短命に終わったあと、幣原喜重郎政権が誕生したが、これは本格的な政党内閣とは言えなかった。片山哲を書記長とする社会党が発足し、鳩山一郎総裁の率いる自由党が結成されてようやく、政党政治が活発化する。分けても鳩山は新生日本のリーダーたらんと野心満々だった。ところが、翌1946年5月早々に連合国総司令部(GHQ)による公職追放を食らって、涙を飲む。

 鳩山の要請でピンチヒッターに擬せられたのが吉田だった。党籍ももたないまま自由党を引き受けさせられた吉田は、麻布市兵衛町(当時)の外相官邸で鳩山と会い、政権を引き受けるについての有名な3条件を出した。「金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君(鳩山)は口出しをしないこと、それから嫌になったら何時でも投げ出すことの三點であった」(カッコ内は筆者)、と吉田は書いている。

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