まことの弱法師(7)

執筆者:徳岡孝夫2016年10月22日

 社用で2度か3度来たのを除けば、東京は私にとってすでにアメリカ同様の異国だった。
 九段のフルブライト委員会は、いずれ基金が尽きて解散する日に備えてか、ささやかな小オフィスだった。学校の教室ほどの部屋に、20数人の同期留学生が集っていた。女性が2人いたと憶えている。そのうち1人は柳行李に詰めた着物らしいものを運び込んでいた。向こうでサクラ・ダンスでも踊ってみせるつもりだろうか。
 男の中には旧知の仲らしく、話のはずんでいる組もある。見たところ30代で世帯持ち、女房のお産の日取りを案じている私などは高齢留学生の部に入るだろう。
 委員会の人が来て、手際よく向こうでの受講登録やレポートの出し方などを説明した。それを聞くわれわれの側でも、新制大学を出ていれば少しは理解できただろう。だが、いかんせん、私は旧制最後の大学出だった。
 政治家や役人になろうと志すヤツならともかく、みな旧制高等学校でデカダン時代を満喫している。
 お寺の息子が文学部に通ったのを機に、親孝行を思い立ち、仏典でも齧(かじ)っておくかと発心して「仏文学」を専攻したのはよかったが、1時間目の講義に出たらラシーヌの演劇論だったという笑い話さえある。
 野放図な学生時代から1度は入社試験に落ちた新聞社に「急に人が必要になった」と呼び出されて、支局回り、サツ回り。ジャーナリズムとは何かなど考える余裕がなかったのである。
 九段の会では最後に「向こうで病気になったらの話をします」と言って1人が立ち上った。
「松沢です」と軽く頭を下げた。
「あの病院の松沢ではないんです。御心配なく」
 彼は笑顔で旅行保険について一般的な話をした。50余年後のいま、日本の若者はキャンパスでの事故や病気を、どう処理しているのだろう。(『新潮45』2016年10月号より転載)

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