まことの弱法師(8)

執筆者:徳岡孝夫2016年11月20日

 私の渡米は1960年。30歳のときだった。その100年前は万延元年である。幕末は何百年も昔のことではない。孤立か開国か、国論は割れていた。
 しかしペリーが横浜に上陸し和親条約にサインしてから、すでに6年が経つ。下田のハリスは通商の自由を1日も早くと、うるさく言って来る。幕府は使節団をワシントンに差し向け、修好通商条約批准書の交換をせざるを得ない立場に追い込まれた。
 その日、村垣淡路守範正はいつもの通り江戸城へ出勤した。今で言う国家公務員の職務に励んでいると、大老からお呼びがあった。参れという。
 服装を改めて参上すると、大老じきじきの御言葉である。
「亜米利加へ行け」
 命じる井伊も命じられる村垣も知らなかったが、大老の命は桜田門外、旦夕に迫っていた。
 ポーハタン号と前後して太平洋を渡った随伴船・咸臨丸はハワイに寄らず、サンフランシスコまで行って帰ったが、ポーハタン組はサンフランシスコからパナマまで南下して汽車で大西洋側に行き、ワシントンに至り、無事大統領に条約書を手交した。
 長い鎖国にも拘らず、江戸の庶民は地球が丸いことに全く無知だったわけではない。森鴎外『渋江抽斎』の妻・五百(いお)が、給仕をしながら、こんなことを言った。
「人が地に立って歩くのは、蠅が天井板に止まるのと同じだと申しますね」
 抽斎はドキリとしたという。
 村垣の方は、帰宅して主命を話したところ、女はみな嘆き悲しんだと彼の日記にある。1000年も昔の鑑真和上の艱難辛苦の渡来を、憶えていたのである。
 さて万延元年の使節団は向こうの新聞でどう報じられたか。アメリカが手を引いて文明の中へ導き出した日本だから、極めて好意的に書かれた。
 だが記事の中に1点、不審な単語がある。団員、小栗上野介のことをofficial spyと書いてある。「公的スパイ」? ちょっと考えてから納得した。小栗の公的な役名は「目付」だった。なるほど。(『新潮45』2016年11月号より転載)
 

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