稲部遺跡で見つかった大型建物や鍜冶工房群の跡(10月14日、滋賀県彦根市)(C)時事

 滋賀県彦根市で、興味深い遺跡がみつかった。2世紀から4世紀、弥生時代後期中葉から古墳時代前期の間栄えた、稲部(いなべ)遺跡(彦根市稲部、彦富町)である。東西日本の接点に位置する巨大遺跡なのだ。

邪馬台国畿内論者は「狗奴国」説

 竪穴建物は180棟以上、国内最大級の大型建物や独立棟持柱建物の痕跡が確認されている。政治と祭祀の都市で、王の館や祭殿が建ち並んでいた。これは、ヤマト黎明期の纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)とよく似ている。しかも、稲部遺跡からは、纒向にはなかった青銅器の鋳造工房と鍛冶工房群がみつかっている。東海や北陸、山陰の土器も持ち込まれていた。鉄と交易で栄える王国の出現だ。邪馬台国とヤマト建国の時代、近江(滋賀県)に、侮れない勢力が存在したことは、間違いない。
 邪馬台国畿内論者は、稲部遺跡こそ「魏志倭人伝」に描かれた狗奴国(くなこく)ではないか、と疑いだしている。卑弥呼の邪馬台国と争っていた狗奴国のことだ。
「魏志倭人伝」に、「狗奴国は邪馬台国の南側にある」とある。ヤマトの北東側の近江とは本来重ならないはずだが、畿内論者は北部九州から南に邪馬台国があるという「魏志倭人伝」の記事の「南」は「東」に改めるべきと推理するから、邪馬台国の南の狗奴国も、邪馬台国(ヤマト)の東に直して考える。したがって、邪馬台国とその「東」にある近江の稲部遺跡はライバルだったことになる。
 しかし、「南」を「東」に置き換えることをはじめ、これまでの学説には、無理がある。「魏志倭人伝」の記事に振り回されているうちに、考古学の物証を都合の良いように解釈してしまったのだ。これでは、いつまでたっても、邪馬台国とヤマト建国の真相は見えてこない。

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