大阪府南河内郡太子町にある叡福寺も聖徳太子由来の寺。二天門の奥に聖徳太子廟が見える(筆者撮影)

 かつて1万円札の顔だった聖徳太子。日本史の中で最も有名な人物といえよう。
 ところが教科書から「聖徳太子」の名は、消えかかっていた。『日本書紀』は「厩戸(うまやど)が本名」と言い、聖徳太子は死後百年以上たってから使い始めた尊称だったため、「厩戸王(聖徳太子)」と書かれる例が目立ってきたのだ。

「馬屋の戸」はキリスト教の影響?

 文部科学省も学習指導要領の改定案の中で、小学歴史教科書の場合「聖徳太子(厩戸王)」で良いが、中学歴史教科書には「厩戸王(聖徳太子)」と表記するように提案した。
 これが、国会で問題視された。長い間多くの人々に親しまれてきた名は聖徳太子だ。この人物を巡る信仰が、日本人の心の拠り所になってきた。だから、聖徳太子の名を残すべきだ、というのである。
 この指摘には一理ある。厩戸王と聞いても、まったく人物像が浮かんでこない。また、聖徳太子の叔母の「推古天皇」や歴代天皇の名も、後の世に贈られた漢風諡号(おくりな)であり、聖徳太子だけ名を変えるのも、不自然だ(以下、厩戸王を聖徳太子と記す)。結果、「聖徳太子(厩戸王)」で良い、とあいなった。
 ただし、聖徳太子の名を巡っては、解くことのできない謎が横たわっている。たとえば本名の「厩戸」も、不可解だ。
 聖徳太子の母親が馬屋の戸にあたった拍子に聖徳太子は生まれたと『日本書紀』は記録し、「厩戸」の名の由来を述べているが、これは「馬小屋で生まれたキリスト」の盗用に他なるまい。中国に伝わった景教(キリスト教の一派)が、すでに日本に影響を与えていたのである。
 とすれば、「厩戸」は、本当にこの男の名なのだろうか?

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