訪中した安倍能成は毛沢東主席(左)には会えなかったが、周恩来首相(右)とは2時間半にわたって懇談した。写真は安倍訪中の前年(1953年)、新華社が配信したもの (C)AFP=時事

 

安倍能成『新中国見聞記』(『世界紀行文学全集』修道社 1971年)

 満州事変に3年先立つ1928(昭和3)年秋に北京を訪れた安倍は、「支那人の個人としての生活力の強さ、その弾力の豊富さは、支那人をして圧さえればひっこみ弛めれば膨れしめる。支那人はこの点に於いて無気味な不死身の性を持って居る。けれどもこれは同時に強い力の前にはちぢみ上がり、相手が弱いと見ればむやみにのさばるという厭うべき性質ともなって現われるであろう。何といっても国土が広く、資源が豊かで、人間の生活力が強い支那の前途は実に我々の前に置かれた興味ある謎でなければならない」(『瞥見の支那』)と綴っている。

 安倍は貴族院勅撰議員、旧制第一高等学校校長(1940~46年)、文部大臣(1946年)、学習院院長(1946~66年)を歴任。戦後は岩波書店を拠点に平和問題談話会を主宰し、現在に続くガラパゴス化した総合雑誌『世界』の創刊当時の代表責任者を務めている。一方、1948年には白樺派や夏目漱石・森鷗外・西田幾多郎門下を糾合し、占領下で呻吟する日本文化の防衛を掲げて雑誌『心』(~1981年)を創刊するなど、岩波書店系保守派の象徴的存在でもあった。中国は、そんな安倍ゆえに狙いを定めたのだろう。1954(昭和29)年、日中友好協会を通じて国慶節に招く。前回の旅行から26年が過ぎていた。

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