吉田篤弘『おやすみ、東京』

評者:杉江松恋(書評家)

2018年7月14日

寝静まった深夜の都会を
舞台にすれ違う12編の物語

よしだ・あつひろ 1962年、東京生まれ。小説執筆の傍ら、クラフト・エヴィング商會名義による著作とデザインの仕事を行う。『つむじ風食堂の夜』他、著書多数。

 夜の静けさを描いた小説だ。
 吉田篤弘『おやすみ、東京』は12章で構成されている。代わる代わる俳優が登場して即興の演技を披露していく演劇のように、章ごとに主役は交替する。芝居の舞台だとすればそれは夜の東京で、おそらく背景の幕にはビル群が描かれている。ほとんど消灯されているが、ところどころに灯りのついた窓がある。その住人が本篇の登場人物なのだ。
 第1章「びわ泥棒」で主役を任される沢渡美月(ミツキ)は、映画会社の〈調達屋〉である。撮影に使われる小道具を揃えるのがその仕事だ。ある夜彼女は、びわを朝までに調達するように命じられる。季節外れになりかけている果物を、しかも深夜に見つけられるかは心許なく、彼女は1本の電話をかける。その相手は、こうしたときに何度か助けてもらっている松井だった。夕方から早朝のみ営業している夜のタクシー会社〈ブラックバード〉の運転手である。
 続く「午前四時の迷子」では〈東京03相談室〉で悩んでいる人からの電話を受ける仕事をしている冬木可奈子が代わって舞台に立つ。彼女の勤務中に古い電話機を業者が回収するという珍しい出来事があり、午前4時という夜の終わりに可奈子は街を彷徨(さまよ)うはめになるのだ。次の「十八の鍵」では、今まで19回の引っ越しをして、過去に住んでいた部屋の鍵を18個持っているという青年が話の中心になる。彼の父親は脇役専門の俳優だった。唯一主演した作品が深夜に限定上映されるということで、映画館に行くために松井の運転するタクシーに乗るのである。
 各話で主役を張った人物が他のエピソードにも顔を出し、12環の鎖を作り上げる。彼らが夜の暗がりの中ですれ違う物語である。「この街の人々は、自分たちが思っているより、はるかにさまざまなところ、さまざまな場面で誰かとすれ違っている」と作者は書く。そのことを知っているのは夜限定の観察者であり、鎖のつなぎ目の役割を担った、タクシー運転手の松井だけなのだ。
 12章の中では多くの事が起きる。行きつけの食堂が同じ場所にあり、知人はそこでハムエッグ定食を作っているだろうと思っていた者は、時間の流れがそれを変えたことを知る。深夜の街で、夢の光景としか思えない古道具屋に迷い込む者もいる。ちょっとした発見と思いがけない邂逅(かいこう)の連続が、すれ違う者たちの間に小さな結び目を作っていく。その結果出来上がった網は、都会の夜を優しく、静かに抱きとめるだろう。

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