トヨタの始祖が豊田佐吉であるがごとく、幸之助の会社は「松下」でしかありえなかった。この十月、その社名を変えるに至るまでには、一人の経営者の慎重で巧緻な“準備期間”があった。 一九六八年春、国鉄名古屋駅前に松下電器産業の事務服を着た若い営業マンが人待ち顔で立っていた。「十メートルくらいは離れて待っているように」 上司の指示が頭に浮かぶうちに目当ての車が到着し、小柄な老人が降りてきた。言いつけ通り遠巻きにしていると、気づいた老人は歩み寄り、目ざとく名札を読み取った。「中村君か。ご苦労さん」 老人は新幹線車中で食べる弁当の包みをさりげなく受け取った。「ひざが震えました」 四十年前の緊張の瞬間が甦る。営業マンは松下電器産業会長中村邦夫(六九)、老人は創業者松下幸之助(八九年死去)。中村は二十八歳、幸之助は七十三歳だった。 松下の歴代社長で創業者から直に経営を託されたのは四代目社長の谷井昭雄(八〇)=現特別顧問=まで。だが、同時代を過ごした彼らよりも中村は「経営の神様」とはるかに多くの“対話”を積み重ねた。その理念で身を固めて 中村は社長就任二年目の二〇〇二年三月期に四千三百十億円の連結最終赤字を計上。この赤字額は五代目社長(在任九三―二〇〇〇年)森下洋一(七四)=現相談役=が七年の在任期間中に積み上げた連結純損益通算額を二百億円近く上回る。中村は一万三千人の早期退職、事業部制廃止など大胆な改革を一気に進めた。幸之助以来の伝統を覆す“劇薬”だったが、それゆえに効果も大きかった。かつての松下は事業部が一つの国を成し、その主である事業部長が作りたいものを作っていた。「会社が滅んでも事業部が残ればいい」と嘯く事業部長もいたほどだ。そんな封建領主のような事業部長を制度ごと一掃し、社長を頂点にした強力な中央集権制を確立したのが中村改革だった。

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