ローマの解体

執筆者:岡本隆司2018年10月13日
従前の体制を転換し、新しい帝国の形を始めた3世紀のディオクレティアヌス帝。だがそれは、分立の萌芽でもあった

 

 ローマの「帝国」と漢の「天下」。さきに述べたとおり、紀元1世紀、「五賢帝」のトラヤヌスと後漢の和帝は、同時代人であった。期せずして同じ時代に併存したローマと漢は、東西あい類似する社会構成と秩序原理を有していたように思われる。

「天下」と「帝国」

 まず両者とも、基層社会に自治性の高いコミュニティ・聚落が存在した。地中海のそれは周知のとおり、ポリスないしキウィタスである。かつて独立していた「都市国家」だったものであって、これとまったく同じ「都市国家」概念で、中国古代の国家と社会を説明する向きさえあった。

 さらに、そうした基層社会を支配する君主のありようからも、東西パラレルな現象をかいま見ることもできる。中華王朝の天子=皇帝は「天命」を受けて、天下に命令を下しえた。ローマでは「命令権(インペリウム)」が及べば、とりもなおさず「帝国(インペリウム)」である。それをインペラトール=皇帝が独占した。

 東西いずれも、このように「命令」が君主の統治・地位、そして称号に直結している。なべて支配の本質が命令に存することに鑑みるなら、当然といえば当然ではあった。

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