シリーズ:中国「見そこない」の歴史(7)火野葦平の場合(上)
2018年10月24日
火野葦平『赤い国の旅人』(『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
中国大陸を舞台に、過酷な戦場に生きる兵士の姿を描いた『麦と兵隊』と『土と兵隊』。これらの小説を残した火野葦平(明治40~昭和35年=1907~1960年)は、インドで開かれたアジア諸国会議からの帰路、昭和30(1955)年4月21日に香港から「赤い国」に入り、広州を経由して北京に向かっている。
この年、日本では戦後政治の枠組みを定めた自民党と社会党の2大政党による「55年体制」の幕が開き、中国では毛沢東が権力基盤固めに乗り出し、独善的・恣意的・急進的な考えを共産党政権の大方針と定め、中国社会を揺さぶりはじめた。
中国政府(窓口は中国人民保衛世界平和委員会)から招待を受けたのは、インドで会議に参加した日本代表団41人のうち28人――〈政治家、経済人、学者、労働運動家、婦人団体代表、医師、作家、詩人、宗教家、など、一行はいろいろな階層の人からなっているが、左翼系と思われる人が三分の二〉(『赤い国の旅人』より)――だった。火野は28人の1人に選ばれたのだ。
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