気付けば“そこにあった”戦争、
それを受容していく12編の物語
日本国内で自然災害が起きても、離れた場所にいると被害を感じられない。外国で戦争が起きていることを知っていたとしても、実感は得られない。これは想像力の欠如だろうか? 本書に収められた12編の物語は、やがて来る戦争が描かれる。
誰が始めたのか、何を争うのか、何もわからない。気付けばそこにあった戦争を、受容していく人々の姿に衝撃を受けた。
「どこか涙のようにひんやりとして」では、アメリカ・ニューヨーク市ブロンクス生まれのマーキスが弟ジャランと連れ立ってボストンへ移り、ジャズバンドを組む。
酒浸りの父母と兄弟の面倒を見るために、麻薬の密売などをしてきたマーキスにとって、ジャズは生きる縁(よすが)だった。ジャズがあったから人生を変えようと思えたのに、立ちはだかる戦争はささやかな願いを打ちくだく。入隊の日の朝、ジャランにある行動をとったマーキス。弟を死なせまいとする兄の思いが切ない。
他にバンクーバーの女子大生、スペインのワイン農家の男、アメリカに移住して成功をおさめた中国人の娘など、それぞれの国の人々を侵食していく戦争を誰も歓迎しないが、かといって逃げようともしない。戦争に変えられようとする自らの運命を淡々と引き受けている。
日本も例外ではない。「アペーロ」の舞台は千葉県・房総半島の小さな漁師町。漁師の千紘(ちひろ)は休みの日に中古のレコードを買い、それを聴くのを楽しむ平穏な男。将来は自分の船を持ち、恋人の渚月(なつき)と結婚を考えていた。明日出征を控える千紘は恋人に戦争から戻ってからの夢を語り、一緒に暮らそうと提案するが、渚月はこう答える。
「それまで私はどうしたらいいの、ここへくるのも辛くなるでしょう」
夢を見なければ戦場へ向かえない男と、現実から未来を計算する女。どちらも、今を生きようとして出す答えは、二分される。
人が始めた戦争もまた、今を生き抜こうとした経過の末に生まれ、結果的に国を破壊し、人々を打ちのめしていく。
冒頭で、離れた場所への想像力の欠如について触れたが、本作は、ふと日常にあらわれた戦争の暗い穴を提示する。作中の人々が穴に吸い込まれるように入っていく様子に驚きながら、自分もまたその後を追ってしまうのだろうと思った。
音が消えても心で鳴り響くブルースのごとく美しい文章。読み終えてもまだ心で鳴り続けている。
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