灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(16)

執筆者:佐野美和2018年11月4日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供)

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 母のお菊は片手に風呂敷包み、もう片方の手に幼い義江の手をとり、下関の波止場に立った。白波立つ関門海峡の対岸には九州の門司が見える。

 門司まではわずかの距離だが、関門海峡を渡ることはお菊にとっては異国に足を踏み入れることと同じだ。

 なんのあてもないが、九州の方では折からの石炭景気に沸いているという。

「景気が良ければきっと座敷も忙しいはずや」

 関門連絡船が出発した。波のうねりが、時折激しく連絡船を揺さぶった。その度にお菊は隣に座る義江をぎゅっと抱き寄せる。

 お菊が琵琶三味線で得意として語り歌う平家物語の「壇ノ浦」。源氏と平家の壇ノ浦合戦を語るこの歌を、改めて1人小さく口ずさんでみる。

「ここからが、わしにとっての戦いが始まるんや」

 幼い義江と、大阪の両親と兄妹の生活が、お菊の細腕にかかっている。

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