灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(30)

執筆者:佐野美和2019年2月10日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

「松竹」傘下の元、関西で地固めをする劇団「新国劇」の一員として義江は日々活動するも、歌劇をやってみたいという野心が抑えられないでいた。

「旭硝子」での会社員時代と同じように、誰にも言わず大阪を旅立つことにした。

 義江の悪い癖を叱ってくれる者など誰もいない。

 自分を拾ってくれた座長・沢田正二郎に挨拶もしないで「ドロン」するのは、芝居道に最も反することだというのはよく分かっていたが、沢田に直訴する勇気などない。

 礼を欠く以上のだらしなさと言われても仕方ないが、これからもこの世界で生きていく最低限の礼儀として、2日がかりで書いた手紙を沢田の鏡台の前にそっと置いて新国劇を去った。

「ちっ、しょうがねえな」

 手紙を読んだ沢田はつぶやいたが、それで大部屋俳優・戸山英二郎のことは忘れた。

 100人を超えるほどに膨れ上がった劇団俳優の辞める話などは日常茶飯事だ。

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