灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(31)

執筆者:佐野美和2019年2月17日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 戸山英二郎(藤原義江)は、オペラというものが大流行となっている浅草にやってきて面接を受けた。

 浅草の喧騒に武者震いをしながら、「日本館」の門を叩く。明治学院を辞めた時に音楽学校を勧めてくれた同級生の町田金嶺は、すでに浅草で舞台を踏んでおり、この日本館を紹介してくれた。その町田と、俳優の藤村悟郎、桜井館主、鈴木楽長が義江を迎えた。

「何か歌ってみてくれないか」

 そうはいってもオペラの楽曲で満足に歌えるものなど1つもなかった。

「フランス国家の『ラ・マルセイエーズ』と讃美歌なら」

 義江は必死に歌ってみせた。今日の喉の調子はいつもよりいい感じだ。          

「う〜ん、耶蘇の鼻歌じゃあるまい」

「ここは教会ではないんだよ」

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。