灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(42)

執筆者:佐野美和2019年4月28日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

「関東大震災」によって、始まったばかりの義江とあきの関係にも大きな影響がでてきた。

 あきは東京に帰る家はなくなり、もう別居どころではなくなった。

 凱旋帰朝した義江は、「さあこれからだ」という時にオペラどころではなくなった。

 義江が、いてもたってもいられず、東京からあきに逢いにやってきた。

 震災地視察のための飛行機が、爆音勇ましく何機も東に向けて走る空の下、義江と手を取り合うことが出来たあきは子供のように泣いた。

 大震災での不安、夫との折り合いの悪さ、すべての心労が涙となってあふれでた。

 そして今、お互いが生きているありがたさに感謝した。

 あきの気持ちが平穏に近づいたところで、義江は帰京することにした。

 別れ際、義江がくれた封筒には百円札が1枚入っていた。

 あきは封を開けて百円札を手に取り、義江の優しさ、そしてお金のありがたさを初めて心から感じた。そして百円札の模様をひねもすながめていた。

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