灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(44)

執筆者:佐野美和2019年4月30日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 あきの義江に対する唯一の不満は、嫉妬深いことだった。

道のすれ違いざまにあきが他の男性をふいに振り向いたりするだけで機嫌が悪くなり、

「あの男とは知り合いなのか」

 と詰問調で言う。

 あきが初恋の島津氏の話を打ち明け、毎月の墓参は欠かさないというと、

「それはとても清くまるで詩のような恋だと思う。ただ、死んでしまった人だと思っても、あなたがお墓まいりをしていることは僕にとっては非常に嫌な気持ちになるので、もう墓参はやめてくれないか」

 あきはそれ以降、島津家の墓には二度と足を踏み入れなかった。

 義江は「自分がお盛んなほど嫉妬深い男」の典型なのかもしれない。

 義江は軽井沢で友人の松平から、学習院に通っている有名な華族令嬢を紹介された。名は雪子と言いまだ幼い表情が残る少女だ。

 雪子が日に日に惹かれていくのが義江には手に取るようにわかった。

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