灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(47)

執筆者:佐野美和2019年5月3日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 あきは青山の自宅で、義江の活躍を報じる外電の新聞報道が何よりも楽しみだった。

 ニューヨークからは、ビクターの赤盤歌手として2度目のレコーディングをしたこと。サンフランシスコからは、のどに6万円10カ年の保険をかけたことなどが記事になった。

 あきもせっせと手紙を送り続ける。便箋は銀座の鳩居堂に作らせたオリジナルで、藤の花とイニシャル「A」が朱色に刷り込まれている。

 離婚への進捗具合とそこから生まれる兄との確執、そして義江への募る愛。

 すべてを便箋に書くことによって、その気持ちははるか海の向こうの義江に乗り移っていく。

「I’M YOURS FOREVER AKI」

 最後にはいつもそうしたためる。

 昭和3(1928)年、宮下とあきは正式に離婚の手続きをした。

 嫁いで14年の歳月。満16歳と10カ月から、今は30歳を超えた。

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