灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(49)

執筆者:佐野美和2019年5月5日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 門司を出発してから東シナ海、インド洋、スエズ運河を航海していよいよ鹿島丸は地中海へと出た。

 あきにとっては生まれて初めての洋行で、船が各地に停泊するたびに、新たな感性が刺激され歌を次々に詠んだ。

 少女時代から佐佐木信綱先生について歌をならって本当に良かったと思う。キャンバスも絵具もいらない、頭の中で歌の世界は広がっていく。おかげで1カ月以上に渡る船の旅も常に新鮮な感性との出会いであった。

 9月18日、義江からの電報を受け取る。

「元気で来い ナポリにて待つ」

 あきからの返信は、

「元気良し 21日に着く」

 同じ海にもそれぞれの顔があることが分かる。

 地中海はいままで見たこともないような透明な碧い色だ。

 いよいよ最終目的地のナポリの港に近づいてくると、紫色に輝くお椀型の大小の山が迎えてくれる。ベスピオ火山というらしい。

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