「対日人脈」枯渇に焦り始めた中国

執筆者:藤田洋毅2008年11月号

“日本通”がいいとは限らないが、知日派がひとりもいなくなるのも考えもの。“促成”は間に合うか。「次の次、早ければ五、六年後にも、日本の政治や経済の仕組みに精通し、日本人のメンタリティーをも熟知した大使が東京に赴任するでしょう」――中国共産党中央の若手中堅幹部はいった。一九九四年夏、江沢民前総書記が名実ともに最高指導者となり厳しい対日姿勢を鮮明にして以来、中国の党・政府内で日本専門家の居場所はどんどん狭くなっていった。「未来を目指す(出世したい)若手幹部」は、米国をはじめ他地域の専門家に次々と「転向」した。だが、江に遠慮しながらも、胡錦濤現総書記は折に触れ日本重視を唱えている。枯渇の危機にある人材の育成を含め、胡は対日外交テコ入れを加速。現在の崔天凱駐日大使の二代後には“日本通”を送り込むという。 国交がなかった時期も含め、毛沢東、トウ小平の時代を通じ中国は日本専門家の充実を誇ってきた。一九八〇年代、その中国共産党の歴史でも「空前絶後の親日家」と評される胡耀邦が総書記として対日外交の先頭に立ち、両国関係は頂点に達した。 八七年の胡耀邦失脚の後も、その人的遺産は中国外交の表舞台に残った。外務次官から駐日大使、全国人民代表大会外事委員会副主任を務めた徐敦信と、駐日公使から次官、外相を経て国務院で外交を統括する国務委員となった唐家セン、胡耀邦が築いた対日人脈の双璧とされる。徐は武大偉、唐は王毅を育て、二人はいずれも日本大使を経て外務次官になった。ことに王は、唐に続き中央委員に名を連ね党内序列も高い。

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