レティシア・コロンバニ 齋藤可津子・訳『三つ編み』

評者:鴻巣友季子(翻訳家)

2019年7月7日

仏人作者が描く、理不尽な抑圧に抵抗する3人の女性

Laetitia Colombani フランス・ボルドー生まれ。映画監督、女優。監督作品に、オドレイ・トトゥ主演『愛してる、愛してない…』(日本公開2003年)など。

 フランス人の作者が選んだのは、アジア、欧州、北米大陸の3つの国と、3人の女性だ。
 「スミタ」、インドの不可触民であり、代々人間の糞尿を素手で汲み取る仕事をしている。娘には轍を踏ませないと決意し、学校に上がらせるが、娘は教師の差別にあう。女性であるだけで、強姦、殺害の危険に晒される。しかも強姦されれば、それは女性側の罪となり、殺されることもある土地だ。
 「ジュリア」、イタリア、シチリア島の前時代的な父性社会のなか、毛髪加工会社の娘として生まれる。父の事故を機に、家族会社の経営がジュリアの肩に。操業の危機を回避するには、金持ちの男性と結婚するしかないと説得されるが……。
 「サラ」、カナダのモントリオールのアソシエイト弁護士。離婚後、子ども3人は有能な男性シッターに任せ、激務をこなす。「ガラスの天井」を突き破り、女性初のトップの地位も間近のころ、乳癌が発覚し、とたんに周りは弱った獣を見るように、サラの足を引っ張りだす。
 境遇も立場もまったく違う3人をつなぐのは、女性や弱者への理不尽な抑圧に対する怒りと抵抗だ。映画監督でもあるコロンバニは、通常の小説形式を用いない。たとえば、
 スミタは「もうやめたい」と言う。
「彼らはなんだってやりかねないぞ、わかっているだろう」と、夫は諫める。
 のような会話体と地の文が分かれた形ではなく、「スミタはやめたい。夫は震えあがる。彼らはなんだってやりかねない。それはわかっているだろう」のように、地の文の中に会話や心の呟きを融けこませて書く。会話と心情がすべてト書きの中に書きこまれている脚本のよう、とも言える。3つの物語はよりミニマルで普遍的なストーリーの糸となって、編みあげられていく。
 インド人の髪質の良さが語られるくだりがある。しかし加工の際、いくら脱色しても元の茶や黒のままの毛もたまにあり、「魔女狩り」のように排除される。まるで、しぶとく抵抗する逆境の女性たちの象徴化のようだが、作者はじつに辛辣なオチを用意している。インド人の髪でも完璧に脱色できる従順な髪の方が「ヨーロッパ人の髪と見分けがつかなくなる」と絶賛されるのだ。そうしたかつらを嬉々として購入した白人女性は、「世界が一致団結して」自分のために働いてくれている、と感じる。なんたるアイロニーの深さ。ただの心温まるお話ではない。ご一読を。

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