ドイツを悩ます『我が闘争』出版問題

執筆者:佐瀬昌盛2008年12月号

著作権切れまであと七年。ネオ・ナチや極右を勢いづかせるような新版が出る前に、きちんとした学術的考証版を出版すべきではないか。 アドルフ・ヒトラーは一九四五年四月三十日、長年の愛人で前日に結婚したばかりのエヴァ・ブラウンを道連れに、ベルリンの総統官邸地下施設で自決した。ときに五十六歳。その二十年前の一九二五年に『我が闘争』第一巻、翌年に第二巻、また、政権獲得三年前の三〇年に合本の「国民版」が世に出た。元来は、「ミュンヘン一揆」に失敗して南独ランズベルクに拘禁された時期の所産だ。《過去の克服》に励んだ戦後ドイツは現代史研究に力を入れ、いくつもの「ヒトラー神話」を壊した。その甲斐あって、ボン民主制は「ナチスの過去」克服の試験に合格したと見られた。が、九九年の首都移転でベルリン民主制を迎えるころから、ドイツ社会はヒトラーが厄介な難題を残していることに気づきはじめた。『我が闘争』の著作権保護期間終了の切迫がそれ。以来、それを巡る物議は収束するどころではない。 ヒトラーの死から七十年後の二〇一五年十二月三十一日に、その保護期間は終る。以後、『我が闘争』の出版は自由になる。それを思うと、ドイツ社会は頭が痛い。実はこの問題は一般にはあまり知られていなかった。と言うのも、同書出版は戦後ドイツで一貫して不可能だったし、不可能の理由が広く誤解されてきたからだ。連邦刑法が禁じているから出版不可なのだろう、と世間は考えてきた。早い話、九九年夏には当時のシュレーダー政権の女性法務大臣までもが同書を「禁書」と勘違いした発言を残した。これは誤解なのだ。ただ、「国家社会主義の思想財」禁止に関する連邦刑法の諸規定からの類推で、この誤解が広まったのには、無理からぬところもある。

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