灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(83)

執筆者:佐野美和2019年12月23日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年)より)

 昭和29(1954)年10月。あきはひとり機上の人となった。これから3カ月間のニュヨーク、パリの美容視察旅行が始まる。

 アメリカは戦後3度目の渡航となる。戦前は昭和11(1936)年、義江がアメリカのラジオ局『NBC』と出演契約を結んだことがあり、半年以上ニューヨークのアパートで家族3人の生活をしていたことがあった。戦後2回の渡航は藤原歌劇団アメリカ公演である。

 こう書くと海外はいかにも近いように感じるが、一般の海外渡航の自由などまだなく、海外渡航者人数は極端に限られていた。

 日本航空が設立されたのも昭和26(1951)年と戦後の事である。

「初めての土地じゃございませんから大丈夫。なまじっかのお連れがあるより、結局ひとりが気楽」

 と言ってはみたが、飛行機が羽田を飛び立った時は豊富な渡航経験なども忘れてすっかり不安な気持ちになる。東京のひとりは慣れてきたつもりだが、洋行となると話は別だ。

 ようやく飛行機が水平飛行となり窓から強い日差しと眼下に雲海が確認できる頃、若いスチュワードの青年がやって来て、「私は義昭さんと中学が同窓でございます」と話しかけられた。青年の笑顔にほっとすると同時に、息子が身近で呼吸しているような暖かい気分に包まれた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。