灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(85)

執筆者:佐野美和2020年1月26日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年)より)

 昭和29(1954)年の大晦日、義江は日比谷公会堂の舞台に立っていた。

『第5回NHK紅白歌合戦』に白組の歌手として出演し、その模様はテレビジョンで放送されている。

 前年の2月から『NHK』の放送が始まり、続いて8月に民放初の『日本テレビ』が開局している。今まではラジオのみで放送してきた『NHK紅白歌合戦』に、第4回から初のテレビ放送が加わった。

「赤勝て!白勝て!」

 の賑やかな紅白が終わると画面は一転、静寂の中に鳴り響く除夜の鐘を中継した。

 開局当時のテレビ受信契約数は866、翌年には1万を突破し、義江が紅白に出場した次の年には5万を突破していくという急激な勢いを持つテレビジョンを無視できないものだということは、アメリカ滞在の経験から義江は誰よりもわかっているつもりだ。

 義江には芸術家としての矜持がある。オペラ歌手というものは生の舞台で力を発揮するものなのだ。映画やラジオやテレビなどというものは、あくまでも舞台の宣伝媒体にすぎない。

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