ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)

〈昭和六年、東北一帯はひどい冷害だった。夏、八月というのに、毎日毎日、冷たい雨がしぶいて、日のさした日といっては、ほんの二、三日しかなかった。

 秋になって、田圃の色だけは、黄金色にかわったが、毎朝、田を回っては心配そうに、稲の穂をしごいて見る百姓の掌に、穂はさらさらと軽く、噛んでみると、むなしいしいなだけが舌に残った。〉

 1897(明治30)年に青森市に生まれ、弾圧と闘った農民運動の活動家、戦後は社会党代議士として昭和を生きた淡谷悠蔵は、1931(昭和6)年の記憶を著書『野の記録』(春陽堂書店)にこうつづった。

ケカツ鳥の啼く年 

 青森の農民たちの間で「凶兆」と先祖から伝わったケカツ(飢渇)鳥(アカショウビン・カワセミ科)のヒョロローンという啼き声に、

〈「やっぱりな、このヤマセ(冷たい北北東の風をヤマセという)では、今年もケカツ(凶作)にきまったじゃ」

 溜息が一座を流れると、その百姓はケカツ鳥が啼いた年の、凶作の経験を、あれこれと話し出し、みんなが、ガヤガヤとそれに和して、しばらく落ちつかなかった。〉

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