ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 東北新幹線の二戸駅(岩手県二戸市)から北上山地に分け入った「荷軽部」(にかるべ、久慈市山形町)という集落に、「バッタリー村」の看板がある。

 地元の木藤古(きとうご)徳一郎さん(89)が、昔ながらの山村の暮らしを伝える活動の場として、沢水で動く唐臼「バッタリー」の小屋や、わら細工、木工品の作業場などを開放し、遠来の来訪者たちと語り合う。筆者が山村文化の取材で知った木藤古さんは、1930(昭和5)年生まれ。1931~34年にわたる東北大凶作を記憶していた。

山村に残る大凶作の記憶

 父の徳太郎さん(故人)は樵(きこり)と冬の炭焼きをし、畑を開墾してヒエ・アワを作り、地鶏や牛を飼った。ヒエ・アワは一反当たり一斗(約15キロ)近くとれたが、家に余裕がなく、食べることなく売ったという。雑穀が、高冷地で田んぼのないこの地方の主な糧だった。

 木藤古さんが見せてくれた昔の山村食が、乾燥させたカブの葉と、硬く寒干しした小粒のジャガイモ。前者は冬に自家製みそ、ウサギの肉と「青菜汁」にし、後者はバッタリーで粉にし餅にした。山の厳しい冬を何年も生き延びるための保存食であり、救荒食であった。

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